今日は、事務局長の雑感を書きます。
昨日、ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』を途中まで読んでいました。そこには「肉体労働者から知識労働者へ」という趣旨のことが書かれていました。いわゆる体を使う労働がGDPに占める割合が年々低下し、いわゆる知識を使う労働者が生み出すサービスが年々その重要度を増しているという話です。このこと自体は、確かにその通りだと思います。
現在は、サービス業が日本のかなりの割合を占めていますから、知識労働もさることながら、「コミュニケーション」を使う労働が増加しているなと感じたのです。
教育、医療、介護、金融、営業、販売など様々な分野で「コミュニケーション」を媒介とした職業が多くなっています。となれば、コミュニケーションが上手くとれない人は、労働市場から遠ざけられていくのではないか?と思ったのです。

つばめ塾の運営者としては、ここで2つのことを考えました。それは、①つばめ塾のこれからの方向性、②貧困問題の要因の考察です。

①3年半、運営してきて何となく分かったのですが、単純に偏差値的な物差しではかった場合、つばめ塾の生徒は不利な立場にいる子が多いなと感じます。真面目で優秀な子ももちろんいますが、今まで保護者のかけてきた「勉強への資源投資」が十分でない子が多いのも事実です。資源投資とは、塾代のみならず、子供の勉強の面倒に親がどれだけ時間をかけてきたかということも含まれます。
そう考えると、ただ単に「成績向上」だけでは勝負できないパターンもあるという事です。つまり、「知識労働者」というくくりには入っていけない子も、つばめ塾では多いということです。知識労働者になるには、大学に行く、資格を取得するなど、「専門」を身につけるだけの資金を用意しなければなりません。
そこでこれから増大するであろう「コミュニケーション労働者」に入っていく事が重要ではないのか?と思うのです。
どこの塾でも同じとは思いますが、ほとんど挨拶できない子もいます。コミュニケーションが得意でない子も散見されます。高校までは進学できても、もしコミュニケーションがあまりにも低ければ、雇ってもらえない可能性も出てきます。

②学問的に何の裏付けもないのですが、なぜ日本で貧困が広がって来ているのか?ということの仮説を立ててみました。
貧困の原因の一つは、「自営業の減少」だと思います。農業や漁業、そして商店を営むなど、自分の裁量でなんとかなる職業で収入を得る人が特に都会では少なくなっているように思えます。
昔も、コミュニケーションがあまり上手くなく、就職出来なかった人もいたはずです。でも、そこに親がいて、「とりあえず、うちの酒屋を手伝え。小遣い位は出してやる。」という形で働く人が多かったのではないか?父親と一緒に働くうちに、コミュニケーション力が上がり、家業を継いだり、近所の自営業者が「あんたの息子は一生懸命働いてくれそうだから、うちに来ないか?」と声が掛かったりして、就職出来たりするのではないかと想像したのです。
ところが今はどうでしょう?アルバイト一つとっても、履歴書を書き、面接を受けなければ雇ってもらえません。ここに「コミュニケーション」が欠如していれば、雇ってもらえなくなります。こういう社会構造の変化が「長期にわたるひきこもり」や「ニート」を生み出す一つの要因ではないでしょうか?

なぜこれが分かるかというと、私の父を見ているからです。昨年71歳で亡くなった父は、中学もまともに通わなかったせいで、字が全く書けない人でした。でも歌舞伎の裏方をしていた祖父が、家でプラプラしていた父を職場に連れ出し、働かせてくれたのでした。
昔はこういう図式があちこちであったのでしょう。でも父の子である私は、歌舞伎やドラマの「小道具」の知識を何ら受け継ぐことなく、「教員」や「父とは分野の違う映像制作」の仕事に就きました。もし私がその就職に失敗していれば、父は私をどうすることも出来なかったはずです。「祖父と父」「父と私」の間に、社会構造の変化があったと推測されるのです。
親が子に継がせる職場、技術がなければ、全ては履歴書を書き、試験を受けなければなりません。「知識」や「コミュニケーション力」がなければ、就職がおぼつかない事になります。

長々と書きましたが、要約すると、以下の事が言いたかったのです。これからは、学力はもちろん大事です。ただ「知識労働者」はますます専門化し、なるまでに相当のコストがかかる。
そう考えると、「コミュニケーション力」を磨いて、これを資源とする「コミュニケーション労働者」(私の作った造語です!!)になっていくことが重要ではないか。つばめ塾としてもそこを考えながら授業や施策を行わなければならないーということでした。

長々とお読み頂き、ありがとうございました。

事務局長 小宮位之